最後に

最後に

 

天気が、あまりにもよかった。海は、まるでそれ自体が光そのものであるかのように、まぶしく凪いでいた。こういう日の海を前にすると、人はどうしても「美しい」という言葉を口にしてしまうのだが、その言葉のあまりの安さに、自分でも少し笑ってしまう。美しさとは、たぶん対象の側にあるのではなく、それを見ている私という装置の側に立ち上がる出来事なのだ——などと、展望台への階段をのぼりながら、私は柄にもなく考えていた。

展望台からの景色は、とてもきれいだった。ただそれだけの事実を、こんなにも長い前置きで飾ってしまう自分がいる。高いところから見下ろすと、まちも、湾も、人の営みも、ひとつの小さな模型のように見える。社会学は、まなざしの位置が対象の意味を変えると教えてくれたが、まさにあの高さから、私は女川という土地を一望する特権的な視点を、ほんの少しだけ手にしていた。もっとも、その特権はすぐに階段を降りることで手放されるのだけれど。

同居人と浜辺へ行き、たくさん泳いだ。海に身を沈めると、視点は一気に反転する。さっきまで見下ろしていた海の、その内側に、今度は自分が包まれている。海底には、たくさんの貝が静かに沈んでいた。その中には、うにまでいた。誰にも数えられず、誰にも意味を与えられないまま、ただそこに在り続けるもの。私はふと、存在するということはこんなにも無償のことなのだと思い、そして次の瞬間、そんなことを思ってしまう自分の大げささに、また少し赤面する。

午後は、HLABのサマースクールに乗り込んだ。たくさんの高校生と話した。彼らのまなざしはまだ何にも固定されておらず、世界のあらゆる方向へ開かれている。その未決定さが、まぶしかった。他者と出会うということは、自分がすでに閉じてしまった問いを、もう一度ひらいてもらうことなのかもしれない。楽しかった、と一言で書けばそれで済むはずのことを、私はまたこうして意味づけずにはいられない。

そのあと、山にも登った。木々のあいだから射し込む光——木漏れ日を、写真に撮った。光は、葉が遮ることで、はじめて「かたち」を持つ。遮られなければ、光はただ均質に降りそそぐだけで、私たちはそれに気づくことすらできない。欠けや隔たりこそが、世界に輪郭を与えるのだ。そんなことを考えながらシャッターを切っている自分は、たぶん、少し痛い。それでもいい。痛いくらいに世界へ意味を投げかけてしまうことが、たぶん、私がここへ来て生きているということの、ひとつの証なのだから。

海も、山も、光も、人も。この一日のなかに、私が学んできたことのすべてを重ねてしまいたくなる。重ねすぎて滑稽になっても、それでかまわない。女川という土地は、そんな私の大げさな内省ごと、静かに受けとめてくれている気がする。

一日を終えて部屋に戻り、撮った写真を見返していると、フッサールの内的時間意識の現象学のことを思い出した。フッサールにとって、私たちが「今」を経験するとき、その現在は決して点ではない。原印象(Urimpression)としての鋭い今は、すぐさま過去把持(Retention)として意識のうちに引きとめられ、まるで彗星の尾のように、直前の「今」が余韻をひきながら現在に連なっていく。同時に意識は、来たるべき「今」を未来予持(Protention)としてあらかじめ先取りしている。だからこそ、ばらばらな瞬間の連なりであるはずの体験が、切れ切れの点にならず、ひとつづきの流れとして生きられる。展望台からの眺めも、海底のうにも、高校生たちの声も、木漏れ日も、その瞬間には過ぎ去っていく原印象にすぎなかった。けれど今、それらは過去把持の尾を引きながら私の意識のうちに沈み込み、なお失われずに、生き生きとした現在(lebendige Gegenwart)のうちで重なりあっている。時間とは、私の外を客観的に流れる何かではなく、意識がみずから「今」を織りなしていく、あの絶えざる流れそのものなのだ。過ぎ去りながらも保たれるからこそ、経験は意味を持つ。——と、ここまで大真面目に書いておいて、要するに「今日は楽しかった」の一言でもあることに、私はまた気づいてしまう。


 

 

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