2019年1月17日、サラエボにて

2019年1月17日、サラエボにて

私が女川に来る約1か月前、12日間の一人旅の最後の目的地として、ボスニアの首都サラエボに降り立ちました。雪山に囲まれた町と中心を流れる一本の川。かつて内戦で壊滅状態にあった町とは思えないくらいの美しさに旅人たちは魅了されます。

1995年。私の生まれた年。この地で、ユーゴスラビア解体に伴う激戦と「民族浄化」が行われました。首都サラエボは包囲され、町を歩く人々は飛び交う銃弾に脅威を感じながら日々を過ごしていたそうです。「チョコレートを1口食べたとき、この世のものとは思えないご馳走に思えた」と、当時の子供たちの手記が語りかけます。

 

このような惨禍を経験したサラエボですが、今は信じられないくらいに立ち直っています。このブログを読んで頂いている皆さんのボスニアに対するイメージといったら何が浮かびますか?・・・内戦?民族浄化?貧しい?

こんなデパートがあるとは思えないでしょう?

 

サラエボの中心部は、大きく分けて「西洋街」と「イスラム街」に分かれており、前者では大型の商業施設やレストランも立ち並ぶほどで、イメージを覆されます。一方の後者は、オスマン帝国時代の面影を残すイスラム街で、1日数回モスクからアザーンが聞こえてきます。写真のような伝統的な街並みや、丘を登って夕焼けと雪景色に染まった町を見ながら聞くアザーンの声はこの世のものと思えない郷愁と美しさを感じさせてくれます。そんな2つの顔をもっているのもサラエボの魅力です。

かつて民族浄化を引き起こした3つの宗教(カトリック・正教会・イスラム)を観光資源として活用し、「文化の交差点」としての共存のあり方を示す場所として旅人を引き寄せています。「混合して再生する」のではなく「きっちり分けて共存する→それを町の魅力とする」という形でまちづくりができているのだと思いました。まさに、「民族浄化」から「文化の交差点」への転換という発想ですね。ヒアリング等していないので真意は分かりませんが。

 

本来ならここで終わるところですが、今日はもう一歩踏み込んで。

 

それでもボスニアから内戦の爪痕は消えていません。

町中の壁の至るところに弾丸の跡が残っており、一つ一つの規模は小さいですが数々のメモリアル博物館に生々しい内戦の記憶が展示されています。

 

旅の途中にザクセンハウゼン収容所に寄ったり、それらの展示物や遺構を見たりする中で、一人の人間として考えたことがあります。それは、突き詰めて言ってしまうと、同時代的に体験していない自分がその苦しみ・悲しみ・希望を完全に「理解」することはできないということです。それぞれに対して「もし自分だったら・・」「もし自分の大切な人だったら・・」と仮定して考えると、何とも言えないくらい心動かされます。しかし、それが想像の世界を出ることは(幸せなことに)ありません。だからこそ、その幸せな分だけ、人の痛みを感じ取らなきゃいけない。だからこそ、今日を大切に生きなきゃいけない。そういったものに触れた時、ラテン語でCarpe DiemとセットでMement Mori(死を想え)という言葉があるのだと肌で実感します。

 

同時に、こうした惨禍に直面した人々の心の動きをいかなる言葉でも形容できない難しさに直面したのも事実です。あの時代を経験した(そして、それ以後に生まれた)ボスニアの人ひとりひとりにとって、あの内戦の記憶は言葉で形容できるようなものではなく、私達もまた簡単に感情を括らずに、静かに寄り添うことが必要なのかもしれないと思っています。

 

ごめんなさい。もう少し続けます・・

写真のような一面に並んだお墓を見て、一瞬「何だろう?」と思いました。

 

イスラム式のお墓なのですが、石碑をよく見るとほとんどの死亡年が1992年から96年と刻まれていました。そしてそのほとんどが20-40代でその生涯を閉じた人たちのものでした。それでやっとこのお墓の意味することが理解できたのと同時に、自分と同じ年代で内戦によって命を落としてしまった見ず知らずの人へ何と言葉をかけていいのか分からなかったです。そして、今でもまだ分かりません。「生かされている命に感謝」と人は簡単に言います。しかし、最も重いものを直視し、思いを巡らせるとき、人は言葉を超えてその意味を静かに静かに実感するのだと思います。

 

「前を向く」けれども「忘れない」という強い気持ちがサラエボに刻まれ続けています。

 

そんなことを考え続けたサラエボへの旅でした。

 

 

投稿者プロフィール

Shion Ohno
Shion Ohno
はじめまして!大野志温(おおのしおん)です。
東京都出身24歳。東京大学公共政策大学院修了後、都内で働いております。
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