行政学の世界では、「実施のギャップ」という概念があります。
いかに立派にデザインされた政策でも、その政策の考案者と実施者は必ずしも同じであるとは限らないため、当初の意図通りに政策が実行されないという考え方です。例えば、道路交通法という法律がありますが、実際に取り締まるのは現場の警察官であり、制限時速40kmの女川駅前を時速160kmで走る車がいたとしても、駅前交番にいる警官がその車を取り締まることができなければ、道路交通法で定められた内容を実施できなかったことになります。
今回はその観点から女川の復興について考えていきたいと思います。
まずは脱線から。
この数日OCHACCOさんで働いていると、お茶の袋詰めを行う機会が沢山あるのですが(ティーバックに詰めるところも手作りです。だからこそ美味しいんです!!)、この作業をこなしていると、お客さんが来てくれた際に「ぜひともこれを買ってもらいたい!」という気持ちが強くなって、思いを込めて商品の説明をすることにつながります。買って頂いた際の嬉しさといったら格別です。(ちなみに今日は、海外からの留学生44名が女川を訪れ、英語でOCHACCOさんを全力でPRさせて頂いた結果、たくさんの来店とお買い上げにつながりました。嬉しい!)つまり、商品を作る過程や苦労を知っていると売ることにもその思いが自然と伝わっていきます。
そこで、復興計画というマクロのスコープに視点を移していきましょう。
女川のまちづくりのコンセプトの一つとして、木を基調とした海につながる景観を生かした清潔なまちづくりという大きなプランがあります。それをきちんと実施するためには、景観を維持するための小さいけれども欠かせない取り組みが不可欠です。一週間前、女川に来た初日に私が驚いたのは、駅中温泉ゆぽっぽの清潔さと、シーパルピア内の公衆トイレの綺麗さです。気になってお話を聞いたところ、ゆぽっぽでは、受付の人が2時間ごとに浴場・脱衣場・トイレ含めての清掃に入ります。受付の人が行かざるを得ないほど人員不足であれば、おろそかになってもおかしくない清掃という作業を隈なく行い、清潔さを維持することが出来ている点も、女川の魅力あるまちづくりに大きく貢献していると感じます。これは今朝見かけた駅の待合室や公衆トイレの清掃の様子も同様です。
当たり前だと思う方もいるかもしれませんが、よくある駅前や大衆浴場、公衆トイレの光景を思い浮かべてみてください。特に地方では清掃の担い手不足(都会では大量の利用者)により薄汚さがどうしても残ってしまいますが、(新築の多さを割り引いたとしても)女川の駅前通りはその概念を覆させるほどの綺麗さです。
いくら立派な復興計画を立てたとしても、それを実施し町の日常を成り立たせているのは一人一人の町民に他なりません。行政学でいうところの「第一線の公務員」ならぬ「第一線の女川人」が復興政策を支えているのです。商品であるフレーバーティーそのものや、そのお店が大事にしたいことを、自分がそれを実際に作る中で消化していき、実施(販売)においてその思いとの一貫性を持たせるのと同じことです。やっと脱線の話とつながりましたね!
本来、実施を行う「第一線の公務員」と政策立案者の間でのギャップをなくすためには、その政策理念の共有を頻繁ないし無意識に行える体制を整える(だからこそ会社などに「社訓」が残っているのですが)ことがセオリー(*)であるといわれていますが、女川ではどうでしょうか? 先程述べたように、すごいと感じる面もあれば、生活圏が分離している現状のように、ここはもったいないと思えるという点もあるというのが私の感想です。政策が完全な形で実施されることはほぼあり得ないので、要は実施のギャップの幅やそれによるマイナスをいかに減じていくかが課題となります。
*この議論を突き詰めると、フーコーの「監獄の誕生」(表題写真がそれです)の議論に行きつくのですが、ここでは複雑になるので割愛します。
町民が復興計画を理解し、自分のこととして消化しているかはその「実施」の側面をみれば顕著に出てくるといえます。評価基準をどこに置くかは難しいですが、今年度で復興基本計画が終了する今だからこそ、小さなところに滲み出る「実施」(まさに「魂は細部に宿る」です)という観点からも同計画の評価をしてみるのも、今後の町の発展の継続に役立つのかもしれませんね。
投稿者プロフィール
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はじめまして!大野志温(おおのしおん)です。
東京都出身24歳。東京大学公共政策大学院修了後、都内で働いております。
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