震災について知る

震災について知る

こんにちは、投稿2回目めいなです!

ここ数日は女川に来た主な目的であった「震災、復興について知る」活動をしておりました。
着いた当日は町づくりや今の女川についてたくさん知ることができたのですが、終えてみて思うのはやはり震災のことを知った上で今の女川を見るのと知らないのと見るのでは、町の見方が変わるなと思いました。

また、この悲しい歴史を二度と繰り返さないように、自分も伝えていく義務があると感じました。

今回は自分が震災について知るために訪れた場所、お話を伺った場所を紹介したいと思います。
(お話聞かせていただいた方、情報くださった方、ありがとうございました!)

女川町地域医療センター

駅前の商業施設より高台にある『女川町地域医療センター』。

病院入口の柱に津波到達地点があり、1.95mとの表記がありました。病院自体が高台になっているにもかかわらず、その病院の1階天井まで津波が来たというのはそれを経験していない私にとって想像を絶するものでした。

病院の二階には震災についてのパネルが展示されており、病院の関係者の方々が自らも被災者でありながら、震災翌日から負傷者の手当てにあたっていた様子が窺えます。

女川町地域医療センター。高台にあることが分かります。
津波到達地点が書いてある病院入口の柱。
震災直後の病院の様子。

 

『セボラ』堂賀さん

駅前のシーパルピアにあるスープカレーのお店『セボラ』さんのご主人で、現在はイラストレーターで素敵な絵を描かれる堂賀さんにお話を聞かせていただきました。(愛くるしいキャラクター「ホヤベー」を書かれたのも堂賀さんです)

震災当時は役場の職員をされていて、先頭に立って町民の方の避難誘導、避難所の環境整備、漁港の開港など幅広くかつスピーディに貢献された方です。当時の緊迫した状況、混沌した状況の中で町の方々と協力して緊急事態に対応されていたことなど、詳細にお話してくださいました。波の高さは最大観測で22mだったことも教えていただきました。このようなご経験をされた方から直接お話をお伺いできることは、大変貴重な機会でした。

『セボラ』の堂賀さんご夫婦と。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

運動公園(震災時避難所)

女川駅から徒歩10分ほど登って行った所に約2600人の方が避難されていた運動体育館がありました。堂賀さんからお話を伺っていたあの緊迫感、割れたガラスを掃除して地べたに寝ていた光景を想像しました。

その横には元々野球場だった場所に建った町民の方の住居があった。マンションの横にあるバックスタンドが元野球場だったことを思わせる。

メディアで見ていた場所、人から聞いていた場所に実際に行って自分の目で見、五感で感じる。このような貴重な経験を基に人々が幸せに生きられる社会を創造していくかが自分に問われているように思います。

避難所になっていた体育館
元野球場に建てられた住宅
仮設住宅

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

まちなか交流館

シーパルピアにある『まちなか交流館』。
ここでは、女川町全体の模型があったり、町づくり計画の概要などのパネルを見ることができます。

例えば、女川では大きな堤防を港付近に建てない代わりに町が3段階(居住地、市街地、漁港施設・メモリアル公園)に分けれられており、東日本大震災と同規模の1000年に1度の津波が来たとしても人が住む場所までは波が来ない構造になっているということを知りました。

土地の少ない女川では大きな堤防を作ってしまうと町の大部分の土地がなくなってしまい、さらに景観が悪くなることで人の呼び込みを難しくなってしまうのを避けるためにこの都市計画が決まったそうです。これはまだ日本では女川でしか実現できておらず、とても秀悦な計画に感動しました。

後日、気仙沼を訪れた際に大きな堤防がどーんと建てられており、町づくりにおいて女川とのちがいを大きく感じました。

段々畑の設計になっている女川の町づくりを説明したパネル

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

石巻市立大川小学校(石巻)

学校にいた74名の教員や児童が犠牲になってしまった大川小学校。そして周りにある町全体が流されてしまいました。

学校は骨格などは震災のまま残されている様子で、二階部分まで津波が来たことが一目で分かります。教室の中はむき出しになっており、黒板だけが見える不思議な光景でした。二階にあるコンクリートの通路のようなものはねじれながら倒壊しており、津波の威力を痛感させられます。

児童70名以上が犠牲になった大川小学校
周りに何もない中学校だけがぽつんと建っていました
大きくなぎ倒されたコンクリートの渡り廊下
橋から見た大川小学校と大川町

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

児童たちが渡っている途中に波にのまれてしまったという橋を眺めていると60代くらいの女性が声をかけてくださいました。その方は、震災前まで大川小学校の近くに住んでいた方でした。津波発生当時もご自宅にいた女性は家ごと山の方に流され、木にしがみついて助かり、お嫁さんは大川小学校の方に流され、小学校の屋根の上に立って、助かったそうです。一歩間違えれば命を落としていたかもしれない方々の生の声を伺って何も返す言葉がありませんでした。

大川小学校の前にある橋。この橋を渡っている最中に児童たちが犠牲になってしまいました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

リアス・アーク美術館(気仙沼)

気仙沼にある『リアス・アーク美術館』。

この美術館では、被災当時の写真や被災物に撮影された方が撮りながら感じた想いが書かれたパネルが添えられて展示されています。下の写真あるのは、ぺしゃんこに潰れてしまった自動車で、横に「自動車」と書かれているにもかかわらず、それを見ても一瞬認識するのに時間がかかるほど変形してしまっていました。

原型をとどめていない自動車
津波が来た時間で止まっている時計

 

 

 

 

 

 

ここで、美術館のパネルに書いてあったことを引用させていただきます。「記録自体が伝えるのではなく、伝えるために記録をとる。つまり、記録をとるだけでは伝えたことにならない」。この言葉を読んで、東日本大震災について知った、宮城を訪れた者として、この地で見た、聞いたことを周りの人に伝えていく、そして自分にできることをやっていくことの重要性を感じ、身が引き締まる思いでした。

「記録自体が伝えるのではなく、伝えるために記録をとる。つまり、記録をとるだけでは伝えたことにならない」

投稿者プロフィール

高安めい菜
高安めい菜
名古屋出身、東京の大学に通う高安めい菜です!
9/11-9/16まで女川におります^^

2年前に南米や東南アジアを訪れたことをきっかけに国際協力に関心を持ち、本質的な課題解決や、現地の人たちのためになることは何か、ということを考えながら活動してきました。最近では、先月の西日本豪雨のボランティアに関わったことをきっかけに防災や復興に関心を持ち、その知見を学ぶために女川を訪問中です。

高校ではバスケ、大学ではフィールドホッケーをやってました。体を動かすこと、自然に触れることなら何でも好きです!

滞在中は女川の皆さんとたくさん交流したいと思っております。魅力あるこの町を存分に楽しませていただきます!
よろしくお願いします^^
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